2007年01月19日

ツクールどもが夢のあと

こんばんは、Jackです。

今日はニフティのデイリーポータルで面白い記事を見かけました。

眠れるツクール作品を探せ

ツクール、そうRPGツクールとか音楽ツクールとか、あったじゃないですか、ゲームを作るゲーム、みたいなソフトが。

ファミコンやスーパーファミコンだとデザエモンやダンジョンキッドなどシリーズ物でない単体の「ゲーム作りソフト」があったりもしたのですが、一番メジャーなのはやはりアスキー(今はエンターブレインだとか)のツクールシリーズでしょう。

この記事はそのツクールシリーズの、スーパーファミコンの中古ソフトを買い漁ってきて、残っているセーブデータを見てみようという、人のプライバシーに一歩踏み込む記事です。

さすがにスーパーファミコンの現役時代がもうかなり昔なので、電池が切れてデータが消えている物も多かったようですが、いくつかには残っていたみたい。で、期待とともにそれらをみていくと、、、

作りかけですらない、ちょっと触ってやめちゃったようなデータばっかりでした。というような記事を読んで、私自身の昔のことを思い出した。

そういえば私もこの手のソフトをいくつか持っていたが、似たようなものだった。ゲームを作ること自体はゲームじゃないんだということに、買ってみてから気づくのだ。ゲーム作りというのはゲームで遊ぶことみたいには気楽な楽しみではないことに。

自分のゲームを作ろう!その響きはなんだかとっても面白そうな話に聞こえる、しかし、それは本当に面白いのか?

プロのゲーム屋さんならゲーム作りは楽しいって答えるだろう、しかしそう答えるまでには様々な困難があったはずで。いくら簡略化されたソフトウェアでも「自分が何を作りたいのか」を現実に形になるまで突き詰めて行く作業はゲーム感覚では遊べない。

そういう、苦い現実に直面するソフト、それがツクールシリーズである。売れた数の半分以上がこういう苦い現実に繋がったに違いないだろう、なんとも切ないソフト達である。

そういえば私はゲームの専門学校に通っていたことがあったが、自らの進路をそのような専門学校に求めた人々でさえ、ゲームを作ることを楽しめる人間は少なかった。それを仕事として続けられた人間はもっと少なかった。そんなものなのだ。

何かの作り手になるということは、その何かが好きだったらできるというようなことではない、形にするためには、相当の努力を要するものなのだ。そういえばJack's Roomで詩を書くのだって、同じことかもしれないね。

デイリーポータルの記事を笑いながら読んでいたが、読み終わったころにはそういう、もっと精進せねばって気分でした。

うん、もうちょっと精進せねば。

2007年1月
車内にて

// Jack


posted by Jack at 00:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑談/過去記事
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