先日、とある駅前を通りかかったとき、なんか改札口の方から普段と違う喧騒が聞こえてくるんです。
なんだろうと思いながら改札口に向かいましたが、そこでは男の子達が十数人(もっといたかも)集まって、赤い羽根の募金を募っていたのでした。
赤い羽根共同募金にご協力お願いしまーす!
赤い羽根共同募金にご協力お願いしまーす!
なるほど目の前で見ると募金活動なんだけど、なんでこんなに騒然としているんだろう・・・なんか、少年達を見た瞬間「なんの騒ぎだ?」とたじろいだ自分がいる。なぜだ?
しばらくして気がついた、少年達は無秩序にそれぞれが大声で「赤い羽根共同募金にご協力お願いしまーす!」と叫んでいるのである。十数人もいれば同時に複数人がばらばらのタイミングで、腹の底から叫んでいたりするわけで、折り重なった絶叫が騒音としてあたりを支配していたのである。
・・・なんかこれ、威圧感あるよなぁ・・・
まあ、各々勝手に絶叫ならみんなで声を揃えるリハーサルとか要らないですらねぇ・・・といって、十数人が一斉に揃って「赤い羽根共同募金にご協力お願いしまーす!」ってのも大音響過ぎる気がするけど、揃って発声するのに腹の底から叫ぶ必要もないし、口々に絶叫より言葉は聞き取れると思う。
それとか、一人が「赤い羽根共同募金にご協力お願いしまーす!」と口火を切ったら後から全員が「おねがいしまーす」と続くとか、これなんか大人数の迫力も生かせて、かつ聞き易い穏やかな音量でメッセージを伝えられていいような気もする。
募金、私は街を歩いていて、気が向いたら応じることもあります。しかし、少なくとも金を渡すには近づかないといけないので、絶叫する少年達に近づくのは勇気が要ります。というか絶叫に辟易したので今回は気が向きませんでした。
募金活動自体は悪いことではないし、多分赤い羽根共同募金ならその募金の使途的に考えれば、良い事なんだけど・・・もうちょっとうまくやらないとかなぁ・・・と思ってしまいました。
なんか、前回の「どこでも会議室」な人々もそうだけど、彼等の場合は彼等の仕事だから、公共的に良いことではないにしても、彼等のビジネス自体は彼らにとって良い事のはずで、そのための会議という、その過程の中の手段が平和にコーヒー飲んでる私を巻き込んでの会議という、あまりよろしくない手法だったわけです。
それぞれ、目的は悪いことではない(悪いビジネスの会議なら外でやらないでしょうしね)のですが、やり方がもうちょっとうまくないと、うまくいかないんじゃないのかなぁと心配になります。
どんなに悪いこととされてるものでも、始められた当初の意志はそれなり立派なものだったりする。確かそんな意味のことをカエサルなんかが言ってましたが、まずいやり方をそのままにしておくと、そんな風に、後から悪いこととされちゃう気がします。
Jack's Roomも、今のままで平気でしょうかねぇ・・・そもそもの志だって別に立派なものでもなかった気はしますが、十周年を期に一度初心に帰ってみるとともに、うまくやれているか見つめなおしてみるのもいいかもしれません。
それでは、Jackでした。
2006年9月
自宅にて
// Jack
全額寄付ではなくて、募金の一部をとっているらしい、
というようなまことしやかなうわさがあって募金しなくなってしまった。
今は、個人のものだったらやりますね。
臓器移植が必要なので、渡米手術のために、お願いします、
と活動しているものとか。
結論として、誰かの役にたっているなら、
どちらでもいい気がするけどね。
あと、羽を付けて歩きたくない + その費用はドコから出てるの?って思ってしまう。
だから、募金がしたいときは、ユニセフ直接が多いかな。
やりようがあるでしょ?って思うな。
ただ、ユニセフに直接ってほど「募金したくなる時」なんてない俺としては街頭で募金を募ってることに意味はまあ、あるかな、イメージ戦略(イメージ良い方が募金も募り易いですから)としての効果も考えて、羽根で済むなら安いものと思います。これが「赤い羽根マーク付きプラズマテレビ」とかなら問題ですが(笑)
まあ、なかなか情景が想像しにくいとも思うけど、十数人の少年(一列に並んでいるので集団として大きく見える)が口々に絶叫(上体折り曲げて声の限りに叫んでた)を繰り返す光景を想像してみてよ、最初暴徒かと思ったぞほんとに(笑)